――料理人を志したきっかけを教えてください。
祖父が日本料理の料理人だったこともあって、料理を一緒に作ったりしていました。高校時代は勉強も殆どもしていなくて大学に進学するイメージも持てずにいたんです。また、子どもの頃からプラモデルを作るなど、手を動かすことが好きでしたので、漠然と将来は職人になりたいと思っていました。
――ナカムラを選んだ理由は?
高校の先輩がナカムラに進学していたことです。それまで、まともに勉強したことがなかったのですが、推薦を得るために勉強を頑張ったら、学年で2番になって、無事に推薦を得ることができました。
――学生時代で印象に残っていることを教えてください。
校外実習で京都の『瓢亭(ひょうてい)』に行ったことです。祖父が『瓢亭』の話をしていて、学校にも『瓢亭』の本があったので興味を持ちました。当時、先生に『瓢亭に行きたい』と伝えたところ、最初はつてがないと難色を示されたのですが、『瓢亭』の本の書き写しをして先生に提出すると、自分の熱意が伝わったのか、研修ができるよう段取りをしてくれました。また、とにかく学校が好きでしたので、土日も登校しては包丁を研いだりしていましたね。ただ、就職が決まった後は気が抜けてしまい卒業が危ない状況に陥っていました。それでも日本料理の試験だけは一切勉強しなくても満点近く獲得できたんです。興味を持っていることと、そうでないことの熱量の差が凄く大きいんですよね。こういう学生って、先生からすると凄く嫌な存在だっただろうなと、今になって思うようになりました。
――卒業後はどちらで学ばれましたか?
一流のお店、一流の環境さえあれば、あとは自分の努力次第だろうと考えてもいましたし、一方で厳しい環境ですぐに辞める人も多いことも耳にしていたため、そんなに簡単な道ではないという覚悟もしていました。福岡を離れて修業しようと考えていたところ、先生の薦めで東京の日本料理店「神谷」へ行かせていただくことになりました。実は、ナカムラから私だけが「神谷」に行くと思っていたんですけど、1年生のときに同じクラスだった島袋君が「俺も『神谷』に行きたい」と言い出したんです。卒業後は全ての料理人がライバル。島袋君とは競争したくないなと思っていたのですが、互いに切磋琢磨することができました。。彼はその後、「銀座しのはら」の初代料理長に就任し、2024年6月、赤坂で独立しました。今も料理をしていて東京で頑張っている数少ない友人の一人です。
――修業時代はどのように過ごされていましたか?
最初の配属先は銀座の店舗でした。銀座店の先輩方はプロフェッショナルな方が多く、尊敬できる方ばかり。学ぶことも多くとても楽しく過ごしていたのですが、ある日、赤坂の店舗に異動することになりました。銀座のお店とは毛色が違いましたし、なかなか馴染めずにいて、正直「辞めようかな」と考えたこともありました。ただ、こちらのお店は手打ち蕎麦を提供していたため、蕎麦の打ち方を勉強しようと思い直し、仕事が終わった後、夜中の1時から蕎麦打ちの練習をしていました。寝る間を惜しんで勉強をする一方で、休みの日は毎週のように美術館や博物館などを巡っていました。今も若い子たちには、「料理の勉強をするのは当たり前。美術や歴史を勉強したり、本を読んだりしなさい」と伝えるようにしています。
――『銀座くらはし』はどのようなお店ですか?
複数店舗を展開すると経営者目線になると言われがちですが、私はあくまでも料理人ですので、毎日現場に入っています。店内はカウンター8席のみ。目の前はオープンキッチンですので、調理のライブ感をお楽しみいただくことができます。季節や旬の食材を踏まえた上でその時々のコースを組み立てます。コースを考えることは難しくもありますが、いろいろ試行錯誤しながら全体のバランスを見て1本の流れのあるコース完成したときはやっぱり嬉しいですね。また、2022年にはすぐ近くに全室完全個室の『銀座くらはしhanare』をオープンさせました。こちらは修業時代に学んだ蕎麦もお楽しみいただけるお店で、ランチミーティングや会食などにもご利用いただいています。
――最後に。今後の展望を教えてください。
将来的にはこれまでの2店舗とはまた違う、もう少しカジュアルなお店をつくりたいと考えています。まだこれから詰めていかなければいけませんが、蕎麦の麺と和出汁を使った麺料理の店をしてみたいですね。
——ありがとうございました。
料理のことを学ぶのは当然ですが、休みの日も美術館に通うなど、あらゆる方向からさまざまな知識を身につけることが大切だと考えています。また、お客様と会話をするにも、さまざまな分野のことを知っておかなければなりません。日頃から本を読んだり、ラジオを聞いたりして、見聞を広げることが大切です。頑張ってください。