——長岡さんが料理人を志したきっかけを教えてください。
実家が食堂を営んでいたんですけど、食の道に進むことは意識的に避けていたところがありました。高校を卒業後、2年ほど海外を放浪していたのですが、生きていくためにいろんなレストランでアルバイトをしました。実家の手伝いをしていたので、厨房での仕事はできましたし。当時は、海外で和食といえば寿司、天ぷら、照り焼きくらいしかなくて。和食は季節感も感じられるし、B級グルメと言われるものも含めてバリエーションが豊かなのに、その魅力が伝わっていないことに対して少し残念に感じたんです。もっと和食を広められたらという想いが強くなり、ある日、ホームパーティでカツ丼を振る舞ったんです。そしたら凄く喜ばれて、定期的にカツ丼パーティをするようになりました。そうこうしているうちに、次は天ぷらをしてほしい、寿司を握ってほしいと頼まれるようになったのですが、私は和食の修業をした経験がありません。ちゃんとした和食の魅力を自分で伝えることができないことにジレンマを抱くようになりました。料理人になりたいというよりも、和食を広められる人になりたいという想いで料理人という道をめざすことにしたんです。
——それでナカムラに入学されたんですね。
はい。大学って、目的のないままに進学する人も少なくないと思うんですけど、私はそういう人がいる場所が苦手だったので、大学に進学せず、海外に出ることにしました。なので、目的を持っている人が多い学校がいいと考えていたのですが、周りの人たちから「それだったらナカムラがいいよ」と教えていただいたんです。和食だけでなく、フレンチやイタリアンなど、料理を頑張っている仲間が近くにいたというのは刺激的でしたね。「こいつは10年後もこの世界で頑張っているだろうな」と感じた友人は、今でも第一線で頑張っています。
——卒業後は、どのようなキャリアを築いてきたのでしょう?
ホテルオークラに就職し、東京での研修を経て、ホテルオークラ・アムステルダムの和食店「山里」で4年を過ごしました。海外で和食を学ぶことはいいこともありましたが、少しずつ技術面で不安を感じるようになったんです。もう一度、和食をイチから勉強しないと後悔すると考え帰国を決意。25歳で割烹「味美」(福岡・中洲)に下働きから入らせていただくことになりました。5年間、改めて和食を学び直し、30歳で下積みを終了。そこからは、湯布院の旅館や東京・築地の和食店など、いくつかの店を短期間で周り、2010年8月、「おとなのごちそう 周」(福岡・薬院)を開業。2016年8月に「日本料理ながおか」として西中洲に移転オープンしました。
——料理人として心がけていることはどんなことでしょうか。
生産者の顔や食材の背景が見える料理をすることですね。休みの日は、生産者を訪ねたり、山菜を採りに行ったりもします。お米は大木町の契約農家が合鴨農法で育てられたものを使わせていただいているのですが、田植えや稲刈りなども行くようにしています。また、2015年にはスローフード協会のお仕事で、ミラノ万博に和食の料理人として参加させていただきました。そのことがきっかけで、畑の風景を料理で表現したいという想いが強くなり、料理のスタイルも少しずつ変わってきましたね。
——外国人の研修生も積極的に受け入れているそうですね。
ミラノ万博の後にパリに寄ったのですが、パリでは日本人シェフのフランス料理店が評価を得ていました。日本人シェフの店にフランス人が食事に来て、シェフを称賛している姿はよくある風景です。一方、日本で和食を食べに行ったとして、料理長が外国人だったら、日本人はまだ受け入れられないと思うんです。その状況は、和食が世界へと広がっていくことの妨げにもなってしまいますし、このままだと和食は遅れてしまうという危惧があります。この店に外国人の研修生がいて、特別なことをしなくても、ここで頑張っているということが伝わればいいなと思いますし、和食全体の底上げを図っていきたいですね。これからも、海外からのゲストの方にも和食を楽しんでいただけるよう、さまざまな取り組みをしていきたいと思っています。
——ありがとうございました。