——村山さんが料理人を志したきっかけを教えてください。
両親からは大学へ進むことを勧められたのですが、興味がなくて。早く家を出て就職しました。そんなとき、地元・久留米でラーメン店を営んでいた親友の親御さんが亡くなられたんです。彼は19歳で店を切り盛りしなければならなくなり、「一緒にやってほしい」と言われたことがきっかけで、飲食の世界に入りました。「MANDARIN MARKET 文華市場」の店主・山北裕児さんが地元の同級生なのですが、当時、私がいたラーメン店に遊びにきたことがあって。彼はナカムラを卒業してホテルの中華部門でバリバリ働いていたんですけど、彼のやること全てがプロに見えたんですよね。彼の勧めもあってナカムラで技術を磨くことにしたんです。
——その頃からイタリアンをしようと思っていたのでしょうか。
いえ。いずれカフェでもできたらいいな、くらいしか考えていませんでした。けれど、ナカムラに入って特別講師として来られる著名なシェフや料理人の方の話を聞き、料理人への憧れを抱くようになりました。なかでも、三國シェフのお話しは感動しましたね。北海道から東京へ出て、フランスでご自身のお店を持たれて。素晴らしいと思いました。研修で「リストランテ フォンタナ」(福岡・渡辺通)に行かせていただき、イタリアンの道をめざすようになったんです。
——卒業後はどのようなキャリアを築いてこられたのでしょう。
「フォンタナ」に入りたかったんですけど、ご縁がありませんでした。そこで、厳しい環境で基礎を学ぼうと考え、老舗フレンチの「和田門」(福岡・西中洲)へ。3年間、しっかり学ばせていただきました。退職し、再び「フォンタナ」の門を叩いたんですが、タイミングが合わず、またもや入ることができませんでした。「和田門」時代は前菜とデザートを担当していましたが、デザートが好きだったので、当時、カフェ・レストラン部門を持っていた「ブルーフォンセ」に入り、「アシェットデセール(皿盛りのデザート)」を学びました。そうこうしているうちに、念願だった「フォンタナ」に入るチャンスが訪れたんです。ここで初めてイタリア料理の基礎を学ぶことになったのですが、「フォンタナにはないカラーを持っている」と、上司や先輩からも認めていただけるようになり、早い段階から責任ある仕事を任せていただけるようになりました。3年ほど経った頃、もっと新しいことを学ぼうと退職を決意。ちょうどそのとき、「グロッタロッサ」の初代料理長としてやってみないかと誘っていただき、29歳で「グロッタロッサ」のシェフに就任。5年近く、シェフを務めさせていただきましたが、このときの経験で度胸がつき、自信を持って独立することができました。
——2009年は大名、2018年は西中洲。どちらもホテルにあるお店ですね。
偶然そうなったんですけど、ホテルにあるというのは信用が高いのではと思います。とはいえ、どちらも高級店という感じにはしたくないんですよね。もちろん、食材は選び抜き、調理法や器も考え抜いています。けれど、肩肘張らず、気軽に来ていただけるお店でありたいと考えています。年に一度の記念日ではなく、月に一度、季節の食材を楽しんでいただけるような存在になれると嬉しいですね。
——レストランという枠を超えて幅広く活躍されていますが、今後の展望を教えてください。
料理人の労働環境や人材不足という課題をいかにクリアしていくかということを考えています。30代は自分一人でやっていこうと考えていましたが、40代になって、それではダメだと思うようになりましたね。10年後、20年後のことを考えたとき、組織として、ココも学校の様な環境をつくっていかなければと気づいたんです。現在、2店舗を運営していますが、スタッフはギリギリにせず、あえて多くしています。しっかりと継承するということをやっていかなければと思いますね。また、3年前から1年に1、2名、イタリアへ研修に行ってもらったりもしています。私たちの時代は、ピラミット型の組織で厳しく育てられてきました。それはそれでいいところもあるのですが、デメリットがあることも事実です。そこはしっかりと改善しながら、お給料や休日などの面も含めて環境の整備に取り組んでいます。最初の就職先が合わずに料理の世界を離れてしまう人も少なくないと聞きます。そんなときは「インクローチ」のことを思い出してもらって、もう一度トライしてほしいですね。「インクローチは技術も学べるし、環境も整っている」と思ってもらえる環境づくりをめざしています。
——ありがとうございました。