——西田さんが料理人を志したきっかけを教えてください。
高校生の頃、テレビ番組「料理の鉄人」を見て料理人になりたいと憧れ、部活を辞めて飲食店でアルバイトを始めました。陳建一さんのレシピで麻婆豆腐を作って友人に食べてもらったりもしていましたね。遠い親戚に料理人がいて、「料理の道に進むなら、ちゃんと学校に通って免許を取得した方がいい」とアドバイスされ、ナカムラへ進学することに決めました。
——最初から和食の世界を目指されていたのでしょうか。
和食か中華か、卒業するギリギリまで悩みましたね。当時は「中華の方が美味しい」と思っていて中華に傾きつつあったのですが、アルバイト先も和食でしたし、当時、担任の先生から和食を勧められたことで、和食の世界へ進むことを決めました。
——学生時代、記憶に残っているエピソードはありますか?
現場実習は凄く楽しかったですね。当時、大丸のエルガーラにあった「熊魚庵 たん熊北店」に2回行かせていただきました。また、私たちが2年生になった頃、校舎の1階にレストランができ、学生がお客様・調理スタッフ・サービスに分かれて実習をしたのですが、あれは結構ためになったと記憶しています。そして何より、テレビで見て憧れていた料理人が特別講師として授業をしてくださったことは、とても刺激になりましたね。
——卒業後はどのようなキャリアを築いてこられたのでしょう。
実習でお世話になった「熊魚庵 たん熊北店」へ就職し、東京の店舗で働かせていただきました。その後、私は福岡に戻ってきたのですが、「たん熊北店」出身で、現在は「八雲茶寮」の総料理長をされている梅原陣之輔さんが、プラザホテル天神(福岡・大名)に併設する「バサン」の立ち上げをすることになり、そこに入らせていただくことになりました。「バサン」では、現在「とり田」などを経営されている奥津啓克さんと出会い、奥津さんが「手島邸」をオープンされるときに、私も「手島邸」へ。その後、「とり田」の初代料理長に就任。「中島町倶楽部」の立ち上げなどを経て、2014年3月、『白金 にし田』をオープンしました。
——『白金 にし田』は、どのようなお店ですか?
時代に流されないお店でありたいと考えています。和食の世界にも流行のようなものがありますが、時代を追いかけたり、流行りに乗っかったりはしません。そういうのって、自信がないからやってしまう側面があると思うんですよね。私の中では、残すべきものは残すという想いがあり、時代に流されない料理を自分のフィルターを通して表現することが大切だと考えています。
また、料理は「食材を活かす」ことを大切にしています。食材にストレスを与えず、合うものと合わせ、無理な工程は通しません。この土地に合った提供の仕方も意識していますね。地元のお客様から「高い」と言われることもあるのですが、東京からお越しになられるお客様は「安い」と言われたりもします。『白金 にし田』は福岡にあるお店ではありますが、日本各地から食材を厳選しており、日本の中の福岡にあるお店でもあります。お客様も国内外から来られますし、made in JAPANの視点で考えることも大切だと思いますね。
——今後の展望について教えてください。
日本の文化を継承していくためには、職人を育てていかないといけないと考えています。職人とは、この職業が残るために一生を尽くす人のこと。私たちは、見習いとして働いてきたギリギリの世代。私たちより若い世代は、ある程度守られた環境で働いています。けれど、基本的な技術は同じ作業を繰り返して身に付くもの。長時間やればやるほど自分のものになるんですよね。当時は大変だと思っていましたが、今となっては必要な時間だったと、心から思います。あの頃はよかったとは言いたくないけれど、冷静な心で、地道に繰り返すことの大切さや、遠回りしたからこそ見える本質的なものもあることを伝えていきたいですね。
——ありがとうございました。