——田中さんは中村割烹学院時代の卒業生だそうですね。
はい。中学を卒業後は家業を継ぐために経理の学校に通いました。当時の「飴源」は、結婚式や法要、出張料理など手広く事業を展開していたこともあって、洋食や中華など、幅広く学びたいと考えるようになったのです。
——当時のことで覚えていることはありますか?
もう60年以上前のことですが、よく覚えています。唐津から姪浜まで汽車に乗り、姪浜からは市電に乗り換え地行西町で下車し、学校に通っていました。西新の商店街に遊びに行ったりもしましたね。当時の授業で配布されたレシピは、今も大切に保管しています。ナカムラに通ったのは1年間という短い期間でしたが、卒業後も先生方や同窓生との繋がりがあり、
ナカムラに通って本当に良かったと思っています。
——「飴源」という暖簾を守るにあたって、どのようなことを心がけていらっしゃいますか?
私たちの商売は、料理の腕も大切ですが、漁師さんとの関係を築いていかなければ、暖簾を守っていくことはできません。最近は川で魚を獲ることを知らない世代も増えています。そんな時代でも、うちに魚を持ってきてくれることは、とてもありがたいですし、「飴源」に持って行ってよかった!と思っていただくことができれば、これからも持ってきてくださいますからね。「飴源」が安定して魚を提供できるのは、漁師さんのおかげであることを忘れずにいることが大切だと思います。
——摘草料理を出されるようになったのは、三好さんの代になってからだったそうですね。
はい。私は父を27歳のときに亡くしました。それまでは海の魚と川の魚の料理を提供していましたが、一人ではできないと考え、川魚だけを提供するようにしたんです。家内と2人でやっているうちに、魚だけでは面白くないねとなり、摘草料理を提供するようになったんです。それが凄くお客様に喜んでいただけたんですよね。次にハマったのが野菜づくりです。今では大根だけで6種類、そのほかにもエシャロットやルッコラ、あけび、むべなど、さまざまな野菜を育てています。なかでも大切にしているのが蓼の葉です。ほかの野菜は誰かに作ってもらうことはできても、この蓼の葉だけは自分たちで育てていかなければ、絶えてしまいますからね。
——最後に。息子さんやお孫さんに伝えていきたいことはどのようなことでしょうか。
暖簾を守り続けるには、たとえ体力が衰えても、欠かさず努力を続けなければいけないということです。技術はもちろんですが、気持ちが大切であることを、これからも伝えていきたいと考えています。
——ありがとうございました。
この世界は常に努力を続けていくことが求められます。私自身、今も新しいことにチャレンジし続けています。料理の技術はもちろんですが、好奇心を持って常に進化を続けることをめざして欲しいですね。